夏休み明けました
夏休み、前の研究の学会含めてまる1か月旅行に行っていたため、研究は本当に進みませんでした、とさ。
それは自業自得として、また研究に対して不安を感じる日々です。
それで今、大学のキャンパスに着いて初めて気づいたのですが、家で無為な時間を過ごしたり、大学への移動中は不安と自己嫌悪で押しつぶされそうだったのに、大学に着いた途端胸のざわつきと焦燥感のようなものがすごく落ち着きました。
これはたぶん、大学に来るだけで”やった感”を得ているんでしょうね。
事実大学に来れば、どんなに集中力のない日でも1時間くらいは作業をするものです。
精神衛生上、きちんと大学に毎日来よう、と決意しました。
別キャンパスだけど定期も買ったしね。
土日とかはどうしようと思ってしまいますけど。
今振り返ると去年なんであんなに不安だったのかな~って不思議なくらいですけど、たぶん来年は今の状況に対して同じことを思うんだろうな~。
明日は中間発表
新たに大学院に入学し、研究を進めて4か月が経過した。
指導教官とは都度都度ミーティングを重ね、自分なりに先行研究や文献を読み重ねてきたつもりだったが。
1年間で大学院を、それも全く下地のない分野で修了するというややいかれたタイムスケジュールに焦り、研究テーマを洗練する前に、とりあえずデータ取っとけ!とデータを取ってしまった。
データを取ればなんとかなる・何かをした気になるから。
昨日他研究室の教員・院生と議論する合同ゼミで進捗発表を行ったら、当たり前ながら、研究の不安定さ、方向性の不確定さを指摘された。
そこで今日、ともかくもっと文献を整理してみなければ!と思っていたけどぼーっとして1日が終わりかけ、そんな現実が辛すぎて「研究 したくない」なんてGoogle検索をしていた。
そうしたら、去年の今頃にも読んでいた、以下の記事にぶつかった。
去年の今頃は、こちらのブログの先生の下で研究できていればこんな思いはしなくてよかったのに…!なんて思っていたものである。
しかし現在の「つらさ」は去年のものとはだいぶ違うものであると気づいた。
去年までの状況と比べて、何が違うかといえば、テーマが本当に自分が興味のあることで、また前の研究室と違い能動的に進学を選択したので、”わざわざ1年間追加した”という思いが強い。
ではなぜつらいのか?何がつらいのか?
それはやはり、全く下地のない分野で研究をする、ということが想像の10倍くらいハードだった、ということに尽きると思う。
作業的にハードというわけではない。去年までやっていたことの方が、わけのわからん数式をわけのわからんGPUとかいうやつにやらせて、わけのわからん結果が出た、どうやって直せばいいんだ…なんて感じで、しかも興味がないもんだから、なんでこんなことやってんだ…と鬱になったわけである。
対して、今は、なんとなくふわっとやりたいことがあるが、それをびしっと1つの研究テーマに収束させることができていない。どうやって収束させればいいのかわからない。何を削って、何を含めればいいのかわからない。
先行研究を読んでいて、手法として何があるのかはわかった。いろんなテーマがあることもわかった。
でも、肝心の私のやりたいことは、いったい何なのか、が明らかにできない。
それなのになぜかデータを取ったのだ。
先ほどのブログの別の記事に、以下のものがある。
「どこまでがんばったら、どれくらいデータがあったら、どんな内容の修士論文がかけたら終了できるのでしょうか。」というご質問から理解するに、研究テーマが定まっていない(理解できていない)状態なのだと思います。
(中略)
どれくらいのデータが必要なのかは、何を主張したいのかによって変わります。どれくらいがんばればよいのかは、そのデータを得るために行うべき作業の量と難易度によって変わります。ですから、結局は、何を主張したいのかをはっきりさせないと自分の研究のゴールが見えないわけです。仮に、とにかく実験をやって良いデータがでたら論文にしてみるというスタンスでも、どういう結果を期待して実験しているのかがわかれば終わりが見えない(その終わりまでたどり着くかどうかは別の話)ことはなくなると思います。
昨日の合同ゼミで、この相談者と全く同じことを今後の課題として発表し、ブログの筆者と同じことを先生方からコメントしていただいた。
さらにほかの記事。
そもそも、自分の主張を他人に納得してもらうとき科学的裏付けが必要だから、実験をしてデータを収集するのであって、実験をしてデータを収集したから自分の主張が生まれるわけではない
そう、そりゃ、そうなんだよ。なぜか、データを集めたらテーマが絞り込めるんじゃないかと、思ってしまったわけである。
しかし、入学からもう4か月もたってしまったし、表題のように、中間発表を明日行わなければならない。修士論文の提出は年明けすぐだから、研究できるのはあと5か月、途中1か月も旅行に行ってしまうので、あともう、4か月しかないのである。
…まじか。自分でもその短さに驚いている。
一応修了ができないってことはない、だろう、とは思っているし、最悪の場合すでに修士号は1つもっているので、1年で無理だったとしても諦めて就職するつもりだ。
でもある程度、素晴らしい研究にはなれないかもしれないけど、なんとか頑張ったね、くらいの研究にはならないと、指導教官をはじめ、副査の先生方、合同ゼミでお世話になっている先生方に、申し訳ない。
し、何よりも、自分がそれを許容できないと思う。進学したことで様々なことを体験し考えるようにはなったから、後悔することはないと思うけど、ある種のくやしさが残り、プライドが多少なりと傷つくだろう。
いま私がつらいと思っているのは、なるほどこのプライドが傷つきかかっているのかもしれない。
そう思うと、去年までの研究でなんとか成果を上げようとしていたのも、このプライドというものを保つために必死だったからだと気づかされる。
状況が大きく変化したからそこにばかり注目していたが、結局のところ原因は同じなのか。
去年の後半くらいから、夜になれば時折不安で胸が苦しくなるようになってしまったのだが…願わくば、この不安を抱えたという経験が、のちの自分にとって意義のあることになるよう。
私が海外旅行を好きな理由
研究で使うアンケートの項目を考えるために、自分が何に関心を抱いているか考えてしまうここ数日。
今さっき、表題のことについて一つの可能性が思い浮かんだ。
私は考えることが好きで、ふと気がつくと考えごとをしてしまう。
先ほど気づいたのだがこの考え事は常に誰かに話す体で行われているが、脳内会話なので当然相手がおらず、相槌も打たれることのない会話が行われている。私が日常会話において相槌を打つときにかなり意識的にならないといけないのはこのせいかもしれない。
それはそれとして、考えごとをするのが”癖”であるのだが(今までは”趣味”と思っていたが、今思いついた。素晴らしい表現だと思う。)、この考えごとをするというのは結構疲れる。
疲れるというか、堂々巡りというか、別に答えがあるわけではない割に時間もとられるし、たいてい何かの作業の途中で考え始めてしまうので本来の作業が進まなくなってしまう(今現在も)し、うーんなんと表現すればよいのだろう?邪魔?支配されているような感じ?
という心理があるからなのか、私は無意識に考えごとをしなくて済むような行動、状況に身を置くことを選択している気がする。
その最たるものは、スマホをいじることである。
スマホをいじっていると、ウェブ上のただ見るだけで済むような記事、動画を延々と見続けられるし、漫画も読める。非常に受動的な状態になれる。
ある種依存症的な状態に陥ってしまうので、本当に作業をしたいときはスマホから離れるようにしている。物理的に。
そして海外旅行に話を移すと、海外旅行に行くと常に何かの刺激を受けているため、考える余地がない受動的な状態になっていることが多い。
考えることもたいてい、今日は何を食べるか、どこに行くか、所要時間と移動手段は…などと、私にとっては比較的次元の低いような、単純な思考だけで済む。
(これを仕事にしている人もいるわけで、決してその人たちが低次元であると言いたいわけではない。決して。事実、旅行の予定を立てるのは非常に煩雑で、やるぞ!と思い立たないとできない。ここでの”高低”には、何かの価値基準が伴っているわけではない)
海外旅行と対のものとして思い浮かぶのが、国内旅行である。
しかし私は国内旅行がそこまで好きではない。海外旅行ほどには。
理由として考えていたのは、お金がかかりすぎてしまうから。これはよく母が言っているし、それに影響を受けたのだと思う。
しかし、海外に行くとなぜか財布のひもが緩くなり、日本で同じくらいの値段で買えるものでも買ってしまう。もちろん無駄なものは買わないが、例えば服なんかは日本では全く買わず、海外でだけ買ったりしている。テンションというか、思考というか、が変わる。
しかしこの理由ではないのではないかと思ったわけだ。
すなわち、海外に行けば国内よりも考えなければならないこと、意識しなければならないことが多くなり、頭の中でぐるぐる考え続けることが脳の容量的に不可能になるからではないか、そうやって考えごとをしなくて済む環境にいたいんじゃないのか、ということである。
海外旅行で考えなければならないことは多くあり、先に述べたような観光のこと、食べたものや見たものの反芻、現金はどのくらい持っておくか、周囲への警戒、体調、一緒に観光している相手との折り合い…正直、疲れる。
この逆の存在が、国内温泉旅行、だと思う。
しかし私は、国内温泉旅行なんて行ってしまえば、時間がただひたすらにあり、もうずーーっと考えごとばかりしてしまうだろう。いやだ。その方が疲れる。からだは疲れないが、どうしても抜けられない考えごとの沼に落ちてしまう。
だったら家でずーーーっとスマホを見ながらだらだらする方がよっぽど頭を空っぽにできる。あるいはひたすら寝るか。
つまり私は、考えごとを、できれば避けたいのだ。冒頭に記述とは異なってしまうが、好きとか嫌いとかとはまた違う感覚だ。
だから答えがはっきりあるような受験数学や資格試験なんかが好きだったのかもしれない。
考える余地がたくさんあるような、国語科目なんかは、成績は悪くなかったが、要は、面倒だったのだ、たぶん。
そして、考えごとの粋である研究者なんかには、とてもじゃないけどなりたいとは思えないのだ。もう完璧に異次元。私にとって現実的じゃない。世界が交わらない。特に人文系。
それが、私が大学院に進んで得られた、一番有意義な知見かもしれないと思っている。
でも仕事なんかに忙殺されて、考える時間が確保できないのもまた嫌なのである。受動的なだけでは、人間が深まらない気がするし、充足感が得られないような気がする。
要はバランスが肝心なのだ。まあおそらく、何をしていても考えごとはしてしまうので、これからも頭の中を埋めに、海外旅行に行き続けるだろう。
ところで私は、「かんがえごと」を「考え事」と表記することに違和感がある。
そもそも「事」という字があまり好きではない。この字は、「事件」とか「事物」とかの熟語にだけ用いられるべきの、非常に具体的な「こと」を扱う字であると思う。
なので、とりとめもなく形もない「考える」という行為と、「事」の字は、決して親和性の高い組み合わせではないように感じるのだ。
音声データ文字起こしの自動化
実際に使うことになるかまだ未定なんだけど、会話分析とかすることになったら文字起こしが必要だなーと思っていろいろ調べてみた。
まず音声の入力にめっちゃつまづいた。
持ち運び用のWin10のPCはステレオミキサーがデフォルトで入ってたから比較的楽に入力させることができたんだけど、このPC、いかんせんスペックがゴミ。
普段は研究室のWin8のPCにリモート接続して使ってる。
しかしWin8にはステレオミキサーがない…!
ということで以下の記事を参考にいろいろ導入を図った。
のだが。
なんとなーくPCでの再生音は認識されてるっぽいが全然音声入力として扱われず…。
さらに調べると同じような状況の方発見。
スピーカーから音を出すことはできなくなりそうだけど、もともとスピーカーなんて使わないし、一つのソフトをインストールするだけで簡単に音声入力ができた!
さあ準備は万端!
Speechnotesってサイトが使えそうじゃない?と早速テストデータを再生!
…ん?
確かにいい感じに読み取ってくれるけど、なんかやたらとぎれとぎれじゃない?
元のデータの音質が良くないのかしら…?
と思って、雑音とかが結構少ないかなと思える、YouTuberの動画で試してみるも、明らかに入力される量が少ない。
えー…。
結局、こちらのnoteで書かれてるように、自分で読み上げた方が、早く正確にできるのかもしれない…という結論になった。
マイク持ってないんだけどね。
はー。
最近やりたいこと
いつもやりたくないことばかりに注目してしまうので、やりたいことをリストアップ。
- 一人暮らし
- 卒業・就職
- 研究のデータ集め・分析
1はそこまでポジティブな理由かは怪しいけど、最近のトップオブ希望。就職と同時にできる予定だけど、なるべく早くしたいね。
2もポジティブじゃないな…就職したいというよりはさっさと卒業したい(=学校から解放されたい)って感じか。働いて何がしたいということはあまりないな…。
すると3はかなりポジティブだと思う。今の研究のフェーズはほとんど文献調査で退屈な感じだけど、自主的に研究をしたいと思えるのは喜ばしいことだ、わざわざ進学したかいがある。
まああとは積みゲークリアとかアニメみたいとかだね。あと筋トレ、水泳教室、とか…。
意外といっぱいあるね。
人との予定をつくる理由
とても人嫌いなんですけども。
視界に人がいるだけでストレスを感じ、文字通り息がつまるような思いをする。
にも関わらず、人との予定が立つと嬉しいし、予定がしばらくないと不安になる。
この理由を、今まで、私が誰かと関わらないと社会に存在していると言えなくなってしまうからだと思っていた。
ただこれだけだと後者の不安を解決するものにはなるけど、前者の嬉しさを説明することができない。
先程『ここは今から倫理です。』という漫画を読んでいて、その中にキルケゴールという哲学者の言葉が紹介されていた。
不安は自由のめまいだ
主人公の倫理の先生が、自由からくる不安を感じている生徒に対して、映画を見ることをすすめる。
映画を見ている間は、映画に縛られることによって、自由がなく、しかし不安もないから、と。
これを読んでふと思ったのが、私は“誰かに会う”ということによって私の時間を埋めて、不安を消したいんじゃないかなと。
たしかに自由、というか暇な時ほど不安が襲いかかってくるし、それをかき消すためか知らんがとにかく本を読んでみたり眠ってみたりしているような気がする。
まあその逃避活動の一環ではないかと。とにかく逃避する理由が欲しいんですな。
とりあえずこの不安を感じているのが研究のせいじゃないかと思ってるんだけど、働き始めたら不安もなくなるのかしら。
所感 - 性自認と社会的な立場
こちらのブログ、消してしまったのかと思っていたらまだ残っていたのね。
最近は折り合いのつかない先生と一時的に離れ、論文の投稿の目安もつきだいぶストレスから解放された生活。
自分がとても興味ある分野の勉強も始められて、時間的制約から焦りはあるけれども嫌々ではなく研究を進められているような気がする。
で、今日の気づき。
今日は後輩たちが、私も去年行った海外インターンでナンパ的なことをされた(さらにそんなのみんなあるよね的な話しぶりだった)という話をたまたま耳にし、え私そんなの起きなかったけどみたいに思ったのが地味に引っかかっている件について。
私は自分の性自認については男でも女でもないXジェンダーかなということで納得している部分がある。これを結論づけられたのは自分の中でとても重要なことだった。
でも、今日上記の話を聞いたあとの飲み会で結婚の話が多く出てきて、世間から遅れてしまったような、ここ1,2年よく感じる焦りみたいなのを抱いた。
焦りは焦りとして受け入れるけど、何が私の中で納得がいかないかというと、自分のことをXだ!と受け止めているはずなのに、ナンパや結婚のような、「女性性」が自分にないととても落ち着かないというということである。さらに、自分が女性として見られているようだぞ、と分かった時に喜んでしまうことに矛盾を感じて自己嫌悪に陥ってしまう。
これについて、まだ納得しきれていないけれど、ひとつの仮説を思いついた。
すなわち、私は自分の性自認に対する誇りや自信よりも、社会から真っ当な人間であると認められることの方が重要と捉えているのではないか、ということ。
「社会に認められる真っ当な人間」というのはあくまで私が社会に抱いているイメージだけども、例えば、私は性別としては(生物学的に)女性であることは認めていて、社会が私のことを(生物学的にもジェンダー的にも)女性として扱うことを知っているし認めている。また社会は、一般的に女性に女性らしさを求めていて、その女性らしさでは、ざっくり言ってモテる女、いい女、女らしい女みたいなものが良しとされていると思っている。
で、Xとしてありのままを認めてもらいたい私は、女性らしさ<自分らしさとして大切にしていたいのに対して、社会に認められたい私は、その逆を自分に求めているのでないか、と。
ここまで文字として書いて、何回か読み返すと、社会とは、世間とは一体誰なのか?という疑問が浮かんできた。
それらは、もはや私が頭の中で勝手に作り上げた妄想と言えるもので、実際は私の友達や家族、そのほかの知り合いからの視線ということだろう。
私が人とコミュニケーションをとることに多大なるストレスを感じるのは、私の中で私の周囲の人に認められたいという意識が強く働いているからかもしれない。
これに対する打開策や解決策、こう考えればいいやという逃げ道はまだ浮かばない。
とにかく私はかなり社会的な人間であるということが、ただただ浮き彫りになるのみである。
でも、この記事を書いたことで、この居心地の悪さを「落ち着かない」と表現するのが丁度いいという収穫があった。あるいは据わりが悪い、かな。