好きなことを書いて自分を愛するブログ

好きなことにとどまらず思考をつらつらと書いたりもする

私が海外旅行を好きな理由

研究で使うアンケートの項目を考えるために、自分が何に関心を抱いているか考えてしまうここ数日。

 

今さっき、表題のことについて一つの可能性が思い浮かんだ。

 

私は考えることが好きで、ふと気がつくと考えごとをしてしまう。

先ほど気づいたのだがこの考え事は常に誰かに話す体で行われているが、脳内会話なので当然相手がおらず、相槌も打たれることのない会話が行われている。私が日常会話において相槌を打つときにかなり意識的にならないといけないのはこのせいかもしれない。

 

それはそれとして、考えごとをするのが”癖”であるのだが(今までは”趣味”と思っていたが、今思いついた。素晴らしい表現だと思う。)、この考えごとをするというのは結構疲れる。

疲れるというか、堂々巡りというか、別に答えがあるわけではない割に時間もとられるし、たいてい何かの作業の途中で考え始めてしまうので本来の作業が進まなくなってしまう(今現在も)し、うーんなんと表現すればよいのだろう?邪魔?支配されているような感じ?

という心理があるからなのか、私は無意識に考えごとをしなくて済むような行動、状況に身を置くことを選択している気がする。

 

その最たるものは、スマホをいじることである。

スマホをいじっていると、ウェブ上のただ見るだけで済むような記事、動画を延々と見続けられるし、漫画も読める。非常に受動的な状態になれる。

ある種依存症的な状態に陥ってしまうので、本当に作業をしたいときはスマホから離れるようにしている。物理的に。

 

そして海外旅行に話を移すと、海外旅行に行くと常に何かの刺激を受けているため、考える余地がない受動的な状態になっていることが多い。

考えることもたいてい、今日は何を食べるか、どこに行くか、所要時間と移動手段は…などと、私にとっては比較的次元の低いような、単純な思考だけで済む。

(これを仕事にしている人もいるわけで、決してその人たちが低次元であると言いたいわけではない。決して。事実、旅行の予定を立てるのは非常に煩雑で、やるぞ!と思い立たないとできない。ここでの”高低”には、何かの価値基準が伴っているわけではない)

 

海外旅行と対のものとして思い浮かぶのが、国内旅行である。

しかし私は国内旅行がそこまで好きではない。海外旅行ほどには。

理由として考えていたのは、お金がかかりすぎてしまうから。これはよく母が言っているし、それに影響を受けたのだと思う。

しかし、海外に行くとなぜか財布のひもが緩くなり、日本で同じくらいの値段で買えるものでも買ってしまう。もちろん無駄なものは買わないが、例えば服なんかは日本では全く買わず、海外でだけ買ったりしている。テンションというか、思考というか、が変わる。

 

しかしこの理由ではないのではないかと思ったわけだ。

すなわち、海外に行けば国内よりも考えなければならないこと、意識しなければならないことが多くなり、頭の中でぐるぐる考え続けることが脳の容量的に不可能になるからではないか、そうやって考えごとをしなくて済む環境にいたいんじゃないのか、ということである。

海外旅行で考えなければならないことは多くあり、先に述べたような観光のこと、食べたものや見たものの反芻、現金はどのくらい持っておくか、周囲への警戒、体調、一緒に観光している相手との折り合い…正直、疲れる。

 

この逆の存在が、国内温泉旅行、だと思う。

しかし私は、国内温泉旅行なんて行ってしまえば、時間がただひたすらにあり、もうずーーっと考えごとばかりしてしまうだろう。いやだ。その方が疲れる。からだは疲れないが、どうしても抜けられない考えごとの沼に落ちてしまう。

だったら家でずーーーっとスマホを見ながらだらだらする方がよっぽど頭を空っぽにできる。あるいはひたすら寝るか。

 

 

つまり私は、考えごとを、できれば避けたいのだ。冒頭に記述とは異なってしまうが、好きとか嫌いとかとはまた違う感覚だ。

だから答えがはっきりあるような受験数学や資格試験なんかが好きだったのかもしれない。

考える余地がたくさんあるような、国語科目なんかは、成績は悪くなかったが、要は、面倒だったのだ、たぶん。

 

そして、考えごとの粋である研究者なんかには、とてもじゃないけどなりたいとは思えないのだ。もう完璧に異次元。私にとって現実的じゃない。世界が交わらない。特に人文系。

それが、私が大学院に進んで得られた、一番有意義な知見かもしれないと思っている。

でも仕事なんかに忙殺されて、考える時間が確保できないのもまた嫌なのである。受動的なだけでは、人間が深まらない気がするし、充足感が得られないような気がする。

要はバランスが肝心なのだ。まあおそらく、何をしていても考えごとはしてしまうので、これからも頭の中を埋めに、海外旅行に行き続けるだろう。

 

 

 

 

ところで私は、「かんがえごと」を「考え事」と表記することに違和感がある。

そもそも「事」という字があまり好きではない。この字は、「事件」とか「事物」とかの熟語にだけ用いられるべきの、非常に具体的な「こと」を扱う字であると思う。

なので、とりとめもなく形もない「考える」という行為と、「事」の字は、決して親和性の高い組み合わせではないように感じるのだ。