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所感 - 性自認と社会的な立場

こちらのブログ、消してしまったのかと思っていたらまだ残っていたのね。

 

最近は折り合いのつかない先生と一時的に離れ、論文の投稿の目安もつきだいぶストレスから解放された生活。

自分がとても興味ある分野の勉強も始められて、時間的制約から焦りはあるけれども嫌々ではなく研究を進められているような気がする。

 

で、今日の気づき。

今日は後輩たちが、私も去年行った海外インターンでナンパ的なことをされた(さらにそんなのみんなあるよね的な話しぶりだった)という話をたまたま耳にし、え私そんなの起きなかったけどみたいに思ったのが地味に引っかかっている件について。

私は自分の性自認については男でも女でもないXジェンダーかなということで納得している部分がある。これを結論づけられたのは自分の中でとても重要なことだった。

でも、今日上記の話を聞いたあとの飲み会で結婚の話が多く出てきて、世間から遅れてしまったような、ここ1,2年よく感じる焦りみたいなのを抱いた。

焦りは焦りとして受け入れるけど、何が私の中で納得がいかないかというと、自分のことをXだ!と受け止めているはずなのに、ナンパや結婚のような、「女性性」が自分にないととても落ち着かないというということである。さらに、自分が女性として見られているようだぞ、と分かった時に喜んでしまうことに矛盾を感じて自己嫌悪に陥ってしまう。

 

これについて、まだ納得しきれていないけれど、ひとつの仮説を思いついた。

すなわち、私は自分の性自認に対する誇りや自信よりも、社会から真っ当な人間であると認められることの方が重要と捉えているのではないか、ということ。

「社会に認められる真っ当な人間」というのはあくまで私が社会に抱いているイメージだけども、例えば、私は性別としては(生物学的に)女性であることは認めていて、社会が私のことを(生物学的にもジェンダー的にも)女性として扱うことを知っているし認めている。また社会は、一般的に女性に女性らしさを求めていて、その女性らしさでは、ざっくり言ってモテる女、いい女、女らしい女みたいなものが良しとされていると思っている。

で、Xとしてありのままを認めてもらいたい私は、女性らしさ<自分らしさとして大切にしていたいのに対して、社会に認められたい私は、その逆を自分に求めているのでないか、と。

 

ここまで文字として書いて、何回か読み返すと、社会とは、世間とは一体誰なのか?という疑問が浮かんできた。

それらは、もはや私が頭の中で勝手に作り上げた妄想と言えるもので、実際は私の友達や家族、そのほかの知り合いからの視線ということだろう。

私が人とコミュニケーションをとることに多大なるストレスを感じるのは、私の中で私の周囲の人に認められたいという意識が強く働いているからかもしれない。

 

これに対する打開策や解決策、こう考えればいいやという逃げ道はまだ浮かばない。

とにかく私はかなり社会的な人間であるということが、ただただ浮き彫りになるのみである。

でも、この記事を書いたことで、この居心地の悪さを「落ち着かない」と表現するのが丁度いいという収穫があった。あるいは据わりが悪い、かな。